『インテレクチュアル・マスターベーション』の感想

『インテレクチュアル・マスターベーション』はパラドックス定数という劇団が2009年に上演した演劇作品(https://pdx-c.com/past_play/intellectual-2009/
配信はこちら(https://www.xcream.net/item/16434

日露戦争後、どんどんきな臭くなっていく時代の話。平民社に集う社会主義者七人が登場する。出版差し押さえ、集会の禁止、思想の弾圧。理不尽な現実に時には言葉を武器として使い、時には諦め、時には破滅的な手段で立ち向かう姿が描かれている。

この演劇作品を観るまで、社会主義というのは縁遠い世界のものだと思ってた。でも調べていくにつれ意外と身近なんじゃないか?とか、この考え方は覚えがあるな、とか感じるようになった。社会主義にこれだけの違いがあることも知らなかった。まだ分かってないこともたくさんあるので、これから勉強していけたらなと思う。

ちなみに『インテレクチュアル・マスターベーション』には実在の人物が出てきますが、あくまで作中の人物は作中の人物として考えています。以下ネタバレを含む感想です。





まず真っ先にそうだなと思ったのが「テロリズムの先に平和はない」という言葉。内山愚童が爆裂弾で人を殺そうとするシーンで出たセリフなんだけど、これは本当にそうとしか言えない。武力で対抗しようとする手段が間違っている。革命を起こすにはこの手段しかないみたいな考えだったけど、本当にそうか?と問い質したくなる。でも何をやっても弾圧を食らうこの時代だったら、そうしたくなるのも仕方ないかもしれない。ただ本当に内山愚童のやり方は間違っている。
で、このシーンは思想に命を懸けられるかという各々のスタンスが分かる場面になっている。この場にいる荒畑寒村、木下尚江、山川均は内山愚童の誘いに乗らない。木下尚江は思想上では中央を引っくり返したいと思ってても、行動はしない人。山川均は武力革命が現実的じゃないって分かってるのかな。だからやらない。
荒畑寒村は屋上演説シーンで「人間が人間の生きる邪魔をする今の世の中が間違ってるんだ。暴力は絶対に反対だ。生きろ!」と言っている。だから人は殺さない。
大杉栄は誘いに乗っちゃいそうになるんだけど、これは思想に命懸けられるからってことになるのかな。結局乗らないんだけど。荒畑寒村大杉栄に「お前も出来てないよ。人を失う覚悟」と言うのがいい。そんな覚悟しなくていいよ。
その点、内山愚童は覚悟ができている。大杉栄が「あんたには自我の代わりに意思が詰まってるんだな」と言うシーンがあるんだけど、この人は革命を起こしたいという意思しかない人だったんだなと感じた。どうしてそんな考えに行き着いたんだろう。

好きなシーンは色々あるんだけど、特に堺利彦が理想を語る場面はいいなあと思う。「同じ社会主義を掲げてもこれだけの違いがあるんだ。(中略)俺たちの違いの中にある違いを意識することが、社会の根っこのところにある平和とか自由とか平等とかに全部繋がんだよ。繋がらないか。いや、繋がったらいいなぁ」というセリフは本当にそうだったらいいのにな、という気持ちにさせる。
あとは幸徳秋水職業軍人の前で直接行動を訴える演説をする場面。時間にして多分十五分はあると思うんだけど、聞いてて全然飽きない。本気で言葉を武器として使ったらどうなるか、というのが如実に分かるシーンになってると思う。「戦争は経済に置いて損失であり、政治に置いて害悪であり、道徳に置いて罪悪です」と訴え、帝国主義の弊害を語り、「睦人と呼ばれる某は刺せば血の出る一人の男に戻るがよろしい」と結論付ける。この人は本当に言葉が上手いと思う。だから恐ろしい。鵜呑みにするのは危険じゃないか、と思う。
山川均が「直接行動を許せば日本は無法国家になる」と言う通り、暴力で何かを変えようとするのは間違ってる。ただ、そうしなきゃ変わらないと思ってしまう気持ちは分かる。こんな弾圧が続く時代なら尚更。ただ本当にやり方は間違ってると思う。
内山愚童が「意味や理由はあとに残された人間が考えるもの」って言ってて、本当にそうなのかな?と思った。言葉や行動を受けて咀嚼して解釈する。それは中々出来ることじゃないけど、思考は停止させたくないなと感じた。

正直『インテレクチュアル・マスターベーション』を最初に観たときはピンとこなかった。それは社会主義について全然知らなかったからだと思う。Wikipediaとか本とか読んで知識が増えるほど感想が変わる。知れば知るほど病みつきになるってこういうことなんだなと思った。やめられなくなる。